「阿伏兎、俺はちょっと遊んでくるよ。 鳳仙の旦那とはもう話し終わったから、お前はここでゆっくりしておくといい。」 団長がそんな事を言って出て行ったのが今からちょうど30分前。 俺は何度目か分からない深い溜息を吐いた。 団長の言う「遊んでくる」には2種類の意味がある。 一つ目は戦場での「遊んでくる」。もう一つは吉原での「遊んでくる」。 勿論ここは後者なので、まぁつまりそういうことだ。 今日は鳳仙の旦那に上層部からの伝言を持って来ただけで、 すぐにでも帰れると思ったんだけどなぁ……。 「はぁ……。」 「随分と神威に振り回されているようだな。」 俺の溜息を聞いたからか、クククと笑いながら鳳仙の旦那が部屋に入ってきた。 その後ろには綺麗に着飾った女が付き従っている。 着ている着物が日輪太夫に似ていることからこの店の花魁だとは思うが、 花魁っつーのはそう何人も居るもんなのか? 遊女の階級なんてこれっぽっちも知らない俺がそんなこと分かるはずもなく、 とりあえず“えらく綺麗な女”とだけ認識しておいた。 「あの人の自分勝手っぷりはアンタが一番良く知ってるでしょう。」 「ククク……その様子だと大分苦労をかけられているらしいな。 今日はお前も楽しんでいけばいい。この通り上玉を用意しておいた。」 鳳仙の旦那の言葉に、後ろに居た女が丁寧に頭を下げた。 「勘弁して下さいよ、俺は若い団長と違ってもう年寄りなんですから。」 「なら酌だけでも受ければいい。神威が帰ってくるまで、コイツは自由に使え。」 そう言って鳳仙の旦那は部屋を後にした。 残された女は鳳仙の旦那を見送った後、ゆっくりと俺の方を向いて微笑んだ。 その途端、俺の心臓が大きく跳ね上がる。 こりゃ上玉どころの騒ぎじゃねぇ、最上級の女じゃねぇか。 その美しさに俺が柄にもなく見惚れていると、 女は上品な足取りで俺の傍に近づき、音も立てずにその場に座った。 『お酌だけでいいなんて、初めて聞きましたわ。』 見た目通りの綺麗な声でそう話しかけられ、 俺は思わず咳払いを一つして、ぶっきらぼうに言葉を返した。 「言っただろ、俺はもう年寄りなんだよ。 遊郭で遊ぶような元気はもうねぇんだ。」 『ふふふ……面白い人。』 まるで鈴の音のような声で笑った女の顔は、 近くで見ると絶世の美女という言葉が相応しいほどに美しかった。 花魁のくせに化粧もろくにしておらず、 しかしそこら辺の女よりは遥かに綺麗な肌をしていた。 「ここのナンバー1は日輪太夫だって聞いてたが……。」 『えぇ、日輪が最高位の花魁ですわ。 私はその下……僭越ながら、星影天神と呼ばれております。』 「星影天神?」 初めて聞く名称に俺が首を傾げると、 用意されていた酒を準備しながら女はにっこりと微笑んだ。 『天神とは、太夫に次ぐ遊女の位のことでございます。 星影は星の光のこと。日輪にちなんで、遊女達がつけてくれたのです。』 「へぇ……お前さんほどの花魁がナンバー2とは、驚きだな。」 俺がそう言うと女はまた上品に笑い、そして俺に勺を手渡した。 『日輪は鳳仙様のお気に入りですから、その地位が揺らぐことはございません。 それに、いくら上品に勤めようと、お客様を寝取ろうと、 日輪の内に秘める真の美しさを超えることは決して出来ませんわ。』 女は嬉しそうにそんな事を言いながら酒を注ぎ、 どうぞ、と可憐な花のような笑顔で俺に笑いかけた。 その表情に、俺は少しだけ居心地が悪くなる。 「お、お前さん、名前は?」 『え?あの、星影でございます。』 「そうじゃねぇよ。本名の方だ。」 俺の言葉に、女はとても驚いた顔をした。 そしてしばらくしてから、言いにくそうに顔を逸らす。 何だ?遊女に本名を聞くのは悪い事なのか? 遊郭なんざ来ることもねぇから決まりが全く分からねぇ。 そんな事を考えていると、どうやら俺の顔が険しくなっていたようで、 気づいた女がハッとした顔で慌てて深々と頭を下げた。 『申し訳ございませんでした。返事をお待たせしてしまって。』 「あ、いや……。」 『私の名前はと申します。』 流石はナンバー2と称えられているだけのことはある。 は先ほどまでの慌てていた様子を全く見せず、 にっこりと綺麗な笑顔を見せて俺にそう言った。 「……。」 『はい。』 俺が無意識のうちに名を呼べば、はにっこりと微笑んで返事をする。 そろそろ本格的に居心地が悪くなって、俺は思わず顔を逸らした。 その行動を不思議に思ったが俺の顔を覗き込もうと体を傾けたが、 今の自分の顔を見られてなるものかと、俺は慌ててに話しかける。 「お前さんはどうしてココに居るんだ?売られてきたのか?」 『え?私ですか?』 自分のことを尋ねられるのは初めてだったのだろうか、 は一瞬驚いたような表情で俺を見つめた。 そしてふ、と顔を曇らせ、少し寂しそうな声で言葉を続ける。 『いえ、私は生まれた時からここでお世話になっております。』 「生まれた時から?」 『はい。私の母はこの店の初代花魁で、途中で私を身篭ったとのことです。』 「……遊女が子供を身篭ったら、捨てられちまうと聞いたが?」 随分前に、鳳仙の旦那がそんなことを言っていた気がする。 遊女は子供を身篭った時点で商品としての価値がなくなり、 お産のために長期間に渡って仕事が出来なくなるので、殺してしまうと。 それが店で一番の花魁とあっては、無事では済まなかっただろうに。 『私の母は天人で、妊娠から出産までの期間が一ヶ月もないんです。 それに天人と言う事もあって、鳳仙様にはとてもよくして頂いたとか。』 「お前さん、天人だったのか。」 『天人と言っても半分だけですけれど。父は人間だったそうですから。』 は空になった俺の勺に酒を注ぎながら話を続けた。 『私は幼い頃から母に立派な花魁になるよう教育されました。 言葉遣いや接客、床での奉仕の方法なんかも……。』 そこまで言うと、は自嘲気味に笑い、そっと目を伏せた。 『薄汚い話でしょう?母の床を見て育ってきたんです。 周りの人間は私のことを美しいと言って抱きたがりますが、 私からしてみれば、こんな欲に汚された女、 金を払われても絶対に抱きたくはありませんわ……。』 そう言うの瞳は酷く真っ黒で、うっすらと涙が溜まっているように見えた。 いや、よく考えてみれば最初からこんな瞳だったかもしれない。 全てを包み込む笑顔の裏には人知れず流した涙があって、 決して顔には出さないが、雰囲気から心の闇が滲み出ている。 この俺の心臓を締め付けるほどの美しい容姿の裏には、 決して人前には出さない隠されたの本心があるのだろう。 注意して見なければ決して見えないその闇を、俺はもっと近くで見てみたいと思った。星の光と闇の影
(星は自分自身で輝くもの。それはまるで太陽のように) (その光が強ければ強いほど、出来る影もまた深く) .。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○ 遊女シリーズの幕開けです。 ※誤字、脱字、その他指摘等は拍手かメールにて。 2010/12/19 管理人:かほ